◆できる限り大きいものに挑戦したい。今一番描いてみたいのはジャンボジェット機の機体!
15歳で単身渡米。アリゾナ、フロリダ、ユタ、L.A.などを渡り歩き、独学でグラフィティを習得。帰国後は有名企業(JT、JRA、松下電器、キューピー等)の平面広告からTV-CM、ブランドコラボレーション(CASIO G-SHOCK)、スタジオセットなど、多方面に渡り活躍中の日本を代表するグラフィティライター TOMI-E。また、ラップ、DJ、ブレイクダンスとならび「ヒップホップの四大要素」のひとつに数えられるグラフィティだけに、彼の活動の中にはライブペインティングなども含まる。たくさんの観客が見守る中、ヒップホップミュージックのリズム合わせ、両手に持ったスプレー缶を自由自在に操り、大きな壁に短時間で個性溢れる図案を絶妙なバランスで完成させていく姿はまさに職人芸と呼べる。
もともとグラフィティは1960年代後半のニューヨークを起源とし、主に様々なカラーのスプレーを使い、壁や電車などに落書きすることから始まったといわれる。当初は一部の人々によるムーブメントとして捉えられていたが、キース・へリングやジャン=ミシェル・バスキアらの活躍により、1980年代以降は単なる落書きではなくアートとして世界的に認知されるようになった。日本でも1980年前後からストリートアートのような感覚でグラフィティが描かれるようになり、神奈川県横浜市の東急東横線「旧高島町駅」から「桜木町駅」付近までの高架下には約1kmに渡り、様々なグラフィティが描かれる有名スポットも存在していた(近年都市開発事業の工事の関係から撤去)。
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▲『JUPITER音楽祭2009 KIJIMA JAM-inn』でのパフォーマンス
今や日本でもなじみ深いものになりつつあるアメリカ発祥のヒップホップ文化だが、ラッパー、DJ、ダンサーといった要素に比べ、グラフィティライターの認知度はかなり低いといえる。もちろんライターが描く図案ぐらいはどこかで見かけたこともあるかもしれないが......。
そんな中、プロのグラフィティライターという立場で現代の日本におけるグラフィティ文化を全国に広め、先頭に立って業界を牽引しているのがTOMI-Eであり。TOMI-Eの様々な挑戦こそが、今後グラフィティライターを目指す者達にとっての指針となるはずである。そこで今回のインタビューでは、彼が独自のスタイルを確率するまでの道のりを様々なエピソードを交えつつ詳しく振り返えり、超行動派である彼の思考を深く掘り下げてみた。
(取材・文:松田秀人 協力:Kinu〜美のカリスマ〜)
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☆ TOMI-E プロフィール
※公式ホームページより抜粋
1990年ヒップホップカルチャーに影響を受け、15歳で単身渡米、アリゾナ・ユタ・L.A.などを移動しながらグラフィティを独学で習得し、各地で活動。
渡米中に出逢ったタイ、中国などのアジア出身のライター達とASIAN CAN CONTROLERZ(ACC)を発足し更に活動の場を拡げる。
1994年帰国後は独特のタッチのキャラクターで雑誌の連載や、数多くのアーティストのジャケットデザイン、ウォールペイントの制作を経て、企業ロゴや平 面広告、ブランドコラボレーション、TV−CMに至るまで、幅広い展開を見せてきた。クライアントはJT、JRA、松下電器、キューピーなど。
自身がデザインをしているブランド"ACC"は多くのアーティスト等から支持され、年々販売総数が増している(注:現在活動休止)。
2006年にはTOMI-E自身をモデルとして取り上げられた映画「TAKI183」が公開される。
そして現在は、音楽・ファッション・広告業界にとどまらず、日本のグラフィティライターとしては初のコンテンポラリーアートへの進出に意欲的な活動を行っている。
Mad Art Master LLC.
住所:東京都港区東麻布1-15-6-201
TEL/FAX:050-5202-6731
URL:http://www.tomi-e.jp/
※公式ホームページ内ギャラリーはこちら↓
URL:http://www.tomi-e.jp/gallery.html
※ライブペインティング風景詳細はこちら(JUPITER音楽祭2009 KIJIMA JAM-inn)↓
URL:http://www.pawanavi.com/music2/archives/2009/10/post_78.html
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☆ TOMI-E インタビュー
◆与えられた楽しみしか落ちていなかった街を、自分たちが遊べる街に変えていく醍醐味をリアルに感じるなんて学校では味わえない。
-----子供の頃から絵画や漫画などが得意だったのですか。
「いやこれが全くなんですよ。興味もなかったし、どちらかといえば絵の具をグチャグチャにしたりするのが得意なほうで、子供の頃はサッカーなどのスポーツをやったり普通に遊んだりしていましたね。ただ音楽は好きだったから、ロックンロールからヘヴィーメタルにマイケル・ジャクソンまでなんでも聴いていましたよ。たぶんヒップホップにはまりだしたのは中学校を卒業してすぐの頃からだと思います。それまで聴いていた音楽とはまったくといっていいほどビート感が違ったから、もういきなり感動しましたね!だからどちらかといえば、自分は絵とかグラフィティそのものから入ったわけではなく、ヒップホップミュージックを通じてヒップホップカルチャーの影響を受け、最終的にグラフィティにたどり着いたって感じですね」
-----15歳で単身渡米とありますが「普通に高校進学」とは考えなかったのですか。
「いや全く考えませんでした。なんかそのまま社会のシステムに乗っかって、なんとなく高校に進学するのがたまらなく嫌で、結局古着屋にアルバイトとして入ったんですよ。何故古着屋だったかというと、自分は八王子出身なんですが、まあ東京都内といえど、なんとなく八王子独特の閉鎖的な空気を子供ながらに苦しく感じていて、それが嫌で当時地元でバイクを乗り回したりしていた仲間達とはつるまず、よく渋谷まで足をのばして遊んでいたんですよ。自分はバイクよりもパーティーとか、イベント等でたくさんの人に合って話をするのが好きだったんです。やがて渋谷の仲間も多くなり、渋谷の文化にも馴染んできた頃、街ではちょうどストリートファッションが大流行していて、先輩や仲間達がどんどんテレビや雑誌で取り上げられたり、時にはでっかい看板になったりもして、そりゃもうみんなカッコよく見えましたよ。だって渋谷のストリートで遊んでいるだけで、全国の若者達に流行を発信でき、さらに大人達は商業目的でむらがってくるわけで、結果的に大きな経済が動くわけですから、ちょっとしたヒーローやヒロインですよ。楽しくないわけがありません。なにより、与えられた楽しみしか落ちていなかった街を、自分たちが遊べる街に変えていくという醍醐味をリアルに感じるなんて学校では味わえないですしね。それも日本のど真ん中でですよ。まあそんなことがきっかけで自分も古着が好きになり、単純に古着屋を選んだわけです。ヒップホップにはまりだしたのもちょうどこの時期です」
-----初めてアメリカに行ったのはいつですか。
「実はアルバイトとして入った古着屋がよくアメリカに買い付けに行っていたんですよ。だから店に入ってすぐに自分もアメリカに連れて行ってもらうチャンスがあって、それでサンタモニカの大きなフリーマーケットに行きました。それが自分にとって最初のアメリカ体験です」
-----何か印象に残る体験はされましたか。
「そのサンタモニカのフリーマーケット会場はかなり衝撃的でした。だってフリマの会場なのにターンテーブルまわしてる奴がいるかと思えば、ラッパーもいるし、おまけにでっかいボードにグラフィティ描いてるし、特に有名な人達ではないのだけれど、もうあちこちでストリートパフォーマンスをやっていて、自然な感じで会場がエネルギッシュに盛り上がっちゃってるんです。そこには日本のストリートとはまったく違った空間がありました。完全にやられちゃいましたね。それから日本にもどって、たまたまスパイク・リー監督の『ドゥ・ザ・ライト・シング』を見て、『中途半端な気持ちでヒップホップカルチャーに足を突っ込むことはできない。上っ面だけなめて、見よう見まねでやってるとおかしなことになっていくぞ』と思いました。確かに当時の日本にはヒップホップミュージックをはじめ、DJやラップ、ブレイクダンスなんかもあったけれど、ヒップホップカルチャーとしてとらえるような動きはなかったんですよ」
◆調べてどうなるものでもない。自分にとって重要なのは脳みそに詰め込むことではなく体感すること。
-----渡米を決心した理由を詳しく教えてもらえますか。
「まあそんなこんなで、ヒップホップカルチャーについて自分なりに調べるようにはなったのですが、徐々に『こんなことをしていても埒が明かない』と思うようになりました。やはり自分にとって重要なのは、脳みそに詰め込むことではなく体感することだと感じたからです。何事も一度自分で経験したことでなければ自分の言葉として人に伝えられないじゃないですか。もちろん体感せずとも、いくつかの情報からイメージできるという事は大切かもしれません。でもそのイメージの質をより高めるには、体感するのが手っ取り早いんです。それが自分にとって良い事ことであっても、また悪い事であったとしても、直接体で感じとったものであれば絶対に糧となるはずなんです。そうして人から人にリアルに伝えられていったものが、やがてカルチャーになっていくのだと子供ながらに強く思ったから『絶対にもう一度アメリカに渡り、ヒップホップカルチャーをこの体にすり込まなければならない』と信じました」
-----どういった名目で渡米されたのですか。またどのくらいの期間渡米されていたのですか。
「当時はまだ15歳でしたから、どうにか親を説得して語学留学という形で渡米することになりました。だからグラフィティ技術を習得するといったような目的があって渡米したわけではなく、単純にヒップホップカルチャーへのあこがれから、本物の世界感が体感したかっただけなんです。ちなみに期間は3年半です」
-----びっくりしたことは?
「まず驚いたのは気軽に酒が買えないことです。IDをちゃんと提示しなければ売ってもらえないから、日本のように『お父さんに頼まれてビールを買いにきました』なんて通用しません(笑)。そして英語。この英語が非常に問題なんです。もちろん語学留学という形で渡米しているわけだから、いろんな国から来た学生達と全寮制の学校に入り語学を勉強するのですが、ヒップホップカルチャーの中では、学校で教えてもらうような英語など通用しないんですよ。普通にHelloなんて挨拶する人間はいないし、聞きなじみのないスラングの連発で......。でもそうしたことも全て体感したかったわけだから、わけのわからないスラングを聞きながら『そうそう求めていたのはこれなんだよ!』とニヤッとしました(笑)。とにかくヒップホップカルチャーに関して言えば、日本にいて感じとれることはとても少ないということが体感できました。ヒップホップ関連商品や見た目のスタイルだけなら日本にも溢れているのでしょうが、マインドまでは無理なようです」
-----日本でいえば、ちょうど高校生としての3年間をアメリカの寮で生活されたわけですが、寮での生活はいかがでしたか。
「日本では不可能ないい体験ができましたよ(笑)!なにせ自分が入っていた寮には世界中から様々な国の人が集まっていたから、各国の文化を少しづつ体感できたし、また小さな寮の中にもアジア系だとかヨーロッパ系だとか様々なコミュニティーがあって、そこからさらに細かく分かれていたりで過激な派閥争いも体験できたし......。でも現地に行って実際に付き合ってみてわかったのは、黒人達はほんとうに厳しい歴史の中を歯を食いしばって生き抜いてきたということですね。確かにそれまでは自分も『こんなにひどい差別は映画の世界だけの話だろ』なんて思っていた部分もあったけれど、文化の異なる様々な人種が同じ屋根の下に集まれば時代に関係なくいろいろと問題がでてくるんですよ。極端にヒップホップを否定してくる派閥もあったし、別に個人的に何かをされたとかがなくても、単なるカテゴライズだけでトラブルが起こったりするんです。まあどうしたって日本の学校とはずいぶん違いますよね。だって日本の学校内であれば、趣味の合う人間同士がグループになっているだけで、隣のクラスメイトの文化や歴史まで否定したりしないでしょ」
-----TOMI-Eさんご自身は、そうした中でどのようなアクションを起こされたのですか?
「はじめの内はいろんな意味で要領が飲み込めなかったりもしたから、自分のことだけで精一杯で様々な人種間のやりとりを観察していましたけれど、やがて環境にもなれてきて『そろそろ自分も動き出さなきゃここまで来た意味がない』なんて思いはじめて、別に具体的な計画なんかなかったけれど『アジア人だろうが日本人だろうが関係ない、とにかくまず手始めにこの学校で一番にならなきゃなにも動かない』って気持ちで動きはじめたんです。凄く乱暴な考え方かもしれませんが、でもそれが一番シンプルで手っ取り早い方法なんです。確かにアメリカの学校で日本人が目立っていれば危険なことも多いですが、そこは若さでどうにでもなったというか、常に『いつでもかかってこいや!』状態であっちっこっち顔を出していたから、気がつけば『日本のギャングスターがやってきた』みたいになっちゃったんです(笑)。きっと今まで自分のような日本人がまわりにいなかったし、こちらが相手のことをよくわからないように、逆に向こうも自分をどう扱っていいものかがわからず、半ばびっくりしてしていたぐらいですから......。とにかく何処に行こうが何をやろうが、自分からアクションをおこす時に一番必要なのは、クソ度胸だと思いますよ。技術や体裁はその次でしょう」
◆一人ひとりが積み上げていく意識や感覚、そして喜びを呼び起こさなければ日本がどんどん駄目になっていく。
-----15歳から18歳という、もっとも多感な時期の3年半をアメリカで過ごされたわけですが、渡米前とその後では、考え方などに変化はありましたか?
「一番は日本に対する見方ですね。15歳の子供がアメリカのヒップホップカルチャーにあこがれて渡米し、様々な体験をして日本に戻り、真っ先に感じたのは、日本の文化や歴史の素晴らしさでした。生まれた時から日本で暮していると、何もかもが当たり前で、不満ばかりが前に押し出されてしまいますが、やはり日本文化の奥深さや完成度って、もっともっと誇るべきものなんだと自然に思えるようになりました。なにより、歴史は一人ひとりが積み上げていくわけだから、日本人として生まれてきたからには、世界中の何処にいても、日本人としての誇りをもって戦っていかなければならないって......。だって日本人がやったことは、たとえそれが日本国内のことでなくても、ちゃんと日本の歴史に残るじゃないですか」
-----今の社会において「一人ひとりが歴史を積み上げる」って感覚をもつことは、まったく忘れられているというか、むしろそういう感覚を自然と持てなくなるようなシステムに流されてやいませんか。
「そうなんだと思います。歴史や社会や文化をつくるのは、自分ではない誰かが知らないどこかでやってくれることで、自分にはまったく関係のないことである......。そんな雰囲気が社会全体からひしひしと伝わってきますよね。逆になりふりかまわず何かを必死にやっている人を馬鹿にしたかと思えば、誰かに守られていることを自慢しつつ守ることを拒んだり、なんか全てが歪んでいますね。守るにせよ、開拓するにせよ、一人ひとりが積み上げていく意識や感覚、そして喜びや苦しみを肉体の内側から呼び起こさなければ日本がどんどん駄目になっていきますよ。とにかく最近は徹底的に何かに関わっていくことが格好悪いような風潮があるし、社会自体が経済の為にどんどん人と人とを切り離そうとしているじゃないですか?これからの若者はもっともっと日本に無関心になりますよ。人に関心がもてなくて、国や社会に関心が持てるわけがありませんからね。自分のまわりにいる仲間達がそんなのばかりじゃ、誰とでも薄っぺらい関係しか持てなくなってしまうのは目にみえています」
-----確かにメーカーや販売店からすれば、10人の仲間で2個の炊飯器を大切に長く使ってもらうより、みんなバラバラにして10個買ってもらったほうが利益になりますしね......。ちなみに徹底的に関わっていくということに関してTOMI-Eさんはどうお考えですか?
「いや何にでもど真ん中の核心の部分まで徹底して入り込みますよ(笑)。渡米の件にしてもそうだし、何事においても体感しなければ気がすまないタイプだから、必然的に入り込んでしまうんです。その部分に関しては子供の頃から一環しているし、自分の根っこの部分だと思います。あと目立ちたがり屋のせいなのかはわかりませんが、どうせやるなら物事の中心でちゃんと発言したいというのがあって、そんなことからも前に進む上でどうしても深く関わる結果になってしまいますよね。だって中心にいるのに『俺は知らないよ』なんてあり得ないじゃないですし、それにどう考えても自分一人の力じゃなにもできないじゃないですか。だからしっかりと繋がらなくてはならなし、やるからには参加してくれたみんなに気持ちよくなってもらいたい......。まあもともと場を盛り上げる役目もすきですから、音頭取りのようなことだって積極的にやりますよ(笑)。ただし、目立ちたいとはいっても、自分だけが目立てばそれでいいという理由から真ん中で音頭をとっているのではまったく意味がないですよね。やはりみんで盛り上がって、仲間達のやる気や活力がアップしていくことを常に意識できる人が中心にいないとチーム全体がガタガタになってしまいます」
-----そうした意識は、生まれもっての部分もあるかもしれませんが、渡米したことにより、さらに強固になったのでは?
「日本の高校に普通に通っていたらもっと緩い意識しかもてず、単なる目立ちたがり屋になっていたかもしれませんね......。とにかく日本の高校では一般的な勉強は教えてもらうことはできるけれど、生きるために必要な本当の意味での自由や自立心はうまく育たないような気がしますね。ある意味、アメリカの悪い部分ばかり真似をして日本の良い部分に深く入り込んでいこうとしない若者達をたくさん排出しているようにも感じられます。とにかく何でもかんでも誰かに守ってもらいたいようだし、守れないのは自分のせいじゃない......。まあ平和といえば平和だからこれほどまでに緩むのかもしれませんが、ただ怖いのは何かに立ち向かいドロドロになって闘っている人を『へぇ』って傍観し、下手したら声すらかけることなく、おもむろに携帯電話で写メして何かのネタにでもするような行動をとれる人が増えていることです。むしろ声をかけると、逆になにをされるかわからないから絶対にやめなさいみたいな......。ここはアメリカのハーレムではないのに、みんなが日本文化を軽視し、アメリカの上っ面ばかり真似るからだんだん変なことになって来てるんです。かといってここがもっともっとメリカのようになったら、誰かが守ってくれるなんて意識の人達はどんどん切り捨てられていきますよ。しかも学校では『生きる』ことの本質なんて誰も教えてくれないから、他力本願で自己再生能力が低い人達は、今以上に何処に流れていけばいいのかわからなくなるでしょうね。下手をすれば10代のもっとも多感な時期に、学校は子供達から、強く生きる為に必要な多くのものを奪っている可能性すらあるかもしれません。なんか子供ってもっともっと自由な存在で、いろんなものを自分の力で選ぶことが楽しいはずなのに、要領よく楽に生きることばかりたくさん詰め込まれ、自分で自分の価値観を育てていく時間がもてなくなっているように感じられます」
◆その日見たグラフィティはそれまで見たものとは全く異なる力を持っていたんです。
-----もともとグラフィティが目的の渡米ではなかったようですが、TOMI-Eさんがグラフィティに深く関わるようになったきっかけを教えてもらえますか。
「アメリカでは語学学校を何度か転入し、フロリダ、ユタ、アリゾナ、LAと拠点を移したのですが、基本的はヒップホップカルチャーを体感したくて渡米したので、もちろんラップ、DJ、ブレイクダンスなども一通り挑戦してみました。しかしどれも楽しめはするんだけれど、いざ自分で何かを表現しようとすると微妙なズレを感じるんですよね。例えば言葉のリアルさだとか、表現者としての立ち位置だとか......。そんな中、フロリダ州のマイアミに滞在していた時のことなんですけれど、たまたま仲間と遊んでいた場所に大きくて真っ白な印象的な壁があって、ある日その壁が一夜にして大きなグラフィティに彩られたんです。それを目の当たりにした時『何コレ、何時描いたの?凄いパワーじゃん!』そんな強い衝撃を受けたんです。その日見たグラフィティはそれまで見たものとは全く異なる力を持っていたんです。それはあきらかに単なる落書きとは違っていました。たったひとつのグラフィティが、昨日までと同じ風景をこれほど変えてしまうなんてまったく信じられませんでした。その時に『よしこれをやろう』ってそう思いました。単純な理由かもしれませんが事実です」
-----それでまずどうされました?
「もちろんスプレーを買いましたね。今のアメリカは落書きの肥大化の問題もあって、スプレーもゲージの中に入っており、お酒のようにIDを見せなければ買えないんですけれど、当時はまだ簡単に手に入ったんですよ」
-----グラフィティは独学だということですが。
「ストリートの遊びの一環として独学で覚えていきました。まあグラフィティってそうやってものにしていく他方法がありませんから。描きはじめたころはスプレーの先のノズルを変えて様々な太さの線を描くということも知らなかったから、そのまま普通に描いてしまい『アレ、線がぼけてるな?』ぐらいのものでした。そんな時にたまたまライブペインティグを開催しているパーティ会場に足を運ぶ機会があって、その時のゲストライターが描いている姿を観察してそれを真似ました。当時の日本ではグラフィティのライブペインティングなどあまり見かけなかったかもしれないですが、アメリカでは方々のイベントで開催されているんです。だから技術的にわからない部分があれば、そうした会場で直接ライターに聞いたりし、そんな風にライター達と付き合っているうちにだんだんグラフィティ仲間も増えましたね」
-----ラップ、DJ、ブレイクダンスと比べて、グラフィティはしっくりきましたか。
「きましたね。他の三つと比べてグラフィティの場合、見る人の感覚に合わなければ見向きもされないし、逆に言えばそれだけに何に遠慮をすることもなく、自分自身をぶつけることができるじゃないですか?やはり渡米して感じたのは、数年で培った口先だけの言葉やアクションでは嘘っぽくなるということなんです。だって渡米する前の自分だって自分なんだし、そういう部分もしっかり表現できなければ作品に厚みがでないじゃないですか。だからラップやブレイクダンスでは無理でも、絵であれば、日本人ならではのフィルターを通した表現も制限なく積極的にできると思えました」
◆『自ら雑誌に売り込む』という凄く直球的な作戦を思いついたんです。
-----その後、本場仕込みのグラフィティを日本に持ち帰ったわけですが、当時(15年前)の日本は、グラフィティライターにとってどのような状況だったのですか。
「まあ今でもプロの定義なんていうものは明確には存在しませんが、当時東京近郊でグラフィティライターという肩書きを前面に出して活動していたのは、自分を含めて確か三人ほどでしたね。厳密にはどれほどのライターがいたかのかはまったくわかりません。ただそれほど、少なかったということです。もちろん誰もが『これで食っていこう』なんて考えてもいなかったと思います。みんななにか別の仕事をしながらグラフィティを描き続けているという状況でしたね」
-----そんな状況が動き出したのは?
「自分は電気工事の仕事をやりながらこつこつとグラフィティの活動を続けていましたが、自分の性格的に、そのままじっとしていることができず、何かアクションを起こして活動を面白くしていかなければつまらないと考えました。もちろん日本の仲間達のテンションも上げたかったかったし、一般の人達にももっとグラフィティを広めたいというのもありました。とにかく同じヒップホップカルチャーでも、ブレイクダンスやラップ、DJ人口と比べても、グラフィティ人口は格段に少なかったんですよ。そこで『自ら雑誌に売り込む』という凄く直球的な作戦を思いついたんです(笑)。当時自分はアメリカの『IGA』というクルーに所属していたので、それをネタに自作自演で某人気ストリート系雑誌の編集部に『アメリカのグラフィティ界で有名な"IGA"のクルーに日本人がいて、今東京に帰って来てるみたいだから取材されてみてはいかがです?なんならアポとりますよ』という電話を入れたんです。そうしたら『ぜひ』ということになりました。取材はグラフィティの聖地であり、自分のホームでもある、東急東横線の旧高島町駅から桜木町駅付近までの高架下で行われました。それから少しづつ状況が変化しはじめました。ただ、もともとグラフィティって『顔を出さない』っていう暗黙の了解のようなものがあったのですが、その時は『そんなのんきなことは言ってられない』くらいに考えていたので、あまり気にはしませんでしたけれど、いくら盛り上げるためとは言っても、『顔出し』に関してはあまりよく思わない人がいたのも事実です」
-----ギャラが発生した日本での初仕事を覚えていますか。
「取材の効果もあり、掲載後すぐに最初のオファーが仙台のクラブからありました。確か交通費・宿泊費と別にギャラが8万円支払われました。それまで自分の作品が買ってもらえるなんて考えていなかったから嬉しかったです。ただそれをきっかけにすぐにストリートで描くことをやめてしまいました」
-----ストリートでの活動をやめてしまった理由は?
「自分の作品に対してお金を支払ってくださる方が出て来た以上、ストリートに描き続ける行為は、とても失礼なことだと判断したからです。やはり『ありがとうございます』という気持ちを忘れずにいたいし、だからといって、アメリカのストリートで体感した全てのことを忘れ、仕事に走ったわけではありません。まあストリートにグラフィティを描いていることと、ストリートが体にしみ込んでいることは決してイコールではありませんから」
-----仕事はコンスタントに入ってきましたか。
「いやいや、たまにライブハウスの壁の仕事等、年に何本かは入ってきましたが、電気工事の仕事はやめられない状態でしたね。もちろん電気工事の仕事も手を抜くことなくバリバリやってましたよ(笑)。ただ先ほど話したような理由からストリートで描くのをやめてしまったから、その間は自宅で作品づくりなどをせっせとやっていましたね」
◆全国各地にポスターが貼られたとき、グラフィティ仲間達と『全国各地の隅々までタギングできたぞ』って盛り上がりました。
-----仕事の質がガラッと変わったと思える、転機となるような出来事を覚えていますか。
「日本に帰って3年ぐらいたった1997年に手がけたCASIO『G-SHOCK』とのコラボ商品ですね。たまたま描きためていた作品が先方の目に留まって、当時としては画期的なコラボが実現されたんです。製品が出来上がったときはかなり嬉しかったですね!『本当に自分でよかったの?』なんて思ってしまったり......。もちろん製品の影響力のおかげもあり、それからは大きな仕事が入ってくるようになりました。その次にオファーがかかったのが、JRA(日本中央競馬会)のG1レースのポスターの仕事です。この時はいろんな人達から『見たよ!』って電話がかかってきましたよ。なにせJRAのG1ポスターだから全国各地にばらまかれますからね!だからグラフィティ仲間達と『全国各地の隅々までタギング(個人や集団のマークを書き込むこと)できたぞ』って盛り上がりました(笑)。その後は変わったところで漫画の連載なんかもやったりしました。そんなこんなで、いつしかグラフィティが生業になり、電気工事の仕事はやらなくなっていました」
-----その後さらに『JT』や『松下電器』『キューピー』等大手企業の作品をどんどん手がけるようになり、2006年にはTOMI-Eさん自身がモデルとして取り上げられた映画『TAKI183』が公開され、いろんな意味でメディアへの露出も増えたと思いますが、TOMI-Eさんとしては「顔出しはタブー」とされるグラフィティの世界において、進んでメディアに露出することに関して抵抗はなかったのですか。
「抵抗はありませんでした。きっと考え方によるのだと思います。確かにスタイルとしてはいくつかあって、とにかく街中にグラフィティを描きなぐるバンダリズムという行為や、天井やビルのより高い危険な部分に描くことが目的のルーフトップ、あと公的に描き込みを了解された壁に描くリーガルウォール、または自分のように大きなキャンバスやボードに向かってライブペイントや作品を制作したりといろいろありますが、先ほども話したようにグラフィティには基本的にはどれも『顔を出さない』っていう暗黙の了解があります。謎めいているのがカッコイイみたいな部分もあるし、もともと落書きから始まっているから、顔なんか出せるわけがないというのもあるでしょう。しかし、どのスタイルも結局は、少なからず『多くの人々にアピールしたい』という要素があるじゃないですか?だったら、例えば大手企業の仕事をし、ストリートのあちこちに自分が手がけたグラフィティがポスターとなって、信じられないような数が貼られるというのも、ありではないかと考えました。さらに日本のグラフィティの世界ではまだ誰も試みたことのないひとつの表現方法ではないかって......。それも落書きではなく、公的に認められたスペースの中でも一番の特等席を大々的に独占できるのだからやりがいもあるじゃないですか?そのためにはちゃんと顔を出して、自分の作品に責任をもたなければなりませんから、どういわれようがやるしかないんです。何度も言いますが、メディアに顔を出したからといって、自分に様々な感動や気付きを与えてくれたアメリカのストリートや仲間達を忘れたことはありませんし、大手企業の仕事を手がけているからといって、自分の中でのグラフィティに対する世界観は昔とまったくかわりません。それは自分が理解していればいいことで、別にその考え方を他人に押し付けようとは思っていません」
-----顔出し反対派からの中傷などもあったのでは?
「やはり『メディアに顔をだしてるからあれは偽物だ!』などと言った声はあちこちから聞こえてきましたよ。かといってこればかりは個人の考え方とスタイルの問題ですからね。だから全国を車でまわり、自費でグラフィティを描いている人とかのことを決して否定したりしないし、逆に避難されたからといって自分で切り開いたスタイルに自信を失うようなこともありません」
◆ライブペインティングは完成作品だけでなく、そのプロセスもエンターテイメントとして楽しんでもらわなければならないんです。
-----話は変わりますが、TOMI-Eさんは現在も作品提供以外に、観衆の眼前でグラフィティを描き上げていくライブペインティングをされていますよね。私も今年の夏に、大分の野外イベント『JUPITER音楽祭2009 KIJIMA JAM-inn』でライブペインティングをされているTOMI-Eさんの姿を拝見させてもらったのですが、短時間で大きな作品を仕上げていましたよね。
「確かあの時は45分くらいでしたっけ?ライブペインティングの時間というのはイベントによってそれぞれです。『JUPITER音楽祭2009 KIJIMA JAM-inn』の時のように、他の音楽アーティストと一緒に、パフォーマンス性に比重をおいて会場を一気に盛り上げるという時は短時間で書き上げるし、たとえばイベントが始まると同時にスタートして、イベント終了時にどのような図案が描かれているかを楽しみに待つようなものであれば比較的じっくりやれるし......。ただ観客の眼前で行うライブペインティングとアトリエで作品を仕上げる作業は目的や性質が違うから、はっきりとわけて考えなければならないんです。何故ならライブペインティングは完成作品だけでなく、そのプロセスもエンターテイメントとして楽しんでもらわなければならないからです。描き順だってちょっとみんなを驚かせるような順番で構成してみたり、時にはヒップホップミュージックのリズムに合わせて両手で描いてみたり。まあいろいろやります」
-----ライブペインティングをやっていて苦労された点は?
「壁やキャンバスに描くのと違い、ライブペインティングは木の板が多いんですよ。コンパネの表面が白く塗装されている、みなさんもどこかで目にしたことがあるアレです。問題は表面がツルツルしているから塗料が定着せず垂れてくるんですよ。だからはじめのうちは塗料の粘度調整を細かく行わなければなりませんでした。また各メーカーによって材質も違うし、スプレー缶のサイズも違うんですよ。この業界では『缶コントロール』と言うのですが、ライターにとって缶は絵筆のようなものだから、やはり手のひらにしっくりこないと気持ちよくパフォーマンスができないんです。ちなみに海外のメーカーは全体的に缶のサイズが大きいから、手のひらが小さい自分は国産品のほうが好きです。あとこれは全てにおいて言えるのですが、昔は今のようにカラーバリエーションがなかったから(昔は26色、現在は90色、海外メーカーでは200色を超える)柔らかなグラデーション効果を出すのが大変でしたし、さらにほとんどがラッカー素材だったから、室内で作業しているとあの独特な匂いでクラ~っとしてくることもしばしばありました。空気循環の悪いクラブなんかでライブペインティングやったら、お客さん達も一緒にクラクラしてしまうから大変です(苦笑)」
-----グラフィティを描く時のことなんですが、アイデアで長く悩むほうですか。
「どちらかといえば、あまり計算などはせず、その時ひらめいたものをどんどん形にしていくタイプです。ただライブペインティングの時は時間の制約や演出もあるし、その他のスタッフとのやりとり等もあるから、手順などは若干考えますね。それでもあまり細かい計算はせず、これまでに体感してきたものをその時々で自然に出していっていると思います。だって綿密に計算していたとしても、ライブなんか不確定要素のほうが多いじゃないですか?屋外でのイベントであれば天候もあるし、それに伴う観客のテンションだってあるし......。そこはジャズプレイヤーと一緒で、臨機応変にアドリブでカバーしなければならないから、ボードの前に立った瞬間の自分に全てをゆだねることにしています」
◆物体があれば何にでも描ける!それがグラフィティアートの魅力。
-----いままでTOMI-Eさんがオファーを受けた仕事の中で「いくらグラフィティだからってこんなのには描けないよ」というものはありましたか。
「それがまったくないんですよ。何かの物体がありさえすれば、建物だろうが、バッグだろうが、Tシャツだろうが何にでも描けてしまう。ある意味それがグラフィティアートの魅力なんだと思います。ただしいて上げるとすれば小さいものが苦手です......。逆に大きければ大きいほどやる気が湧いてきますね」
-----では今もっとも描いてみたい大きなものはなんでしょう?
「出来る限り大きいものにチャレンジしていきたいんですけど、特にジャンボジェット機は昔からの夢なんですよ!自分が描いた作品が大空を駆け抜けるって、これほど魅力的なことはないですよ。それが海外便であれば最高ですよね」
◆現在手がけている作品で自分が変わろうとしているのがわかる。
-----さて、現在TOMI-Eさんは、次のステップに向けて作品づくりをしている最中だとお聞きしましたが?
「ちょっと今までとは作品のイメージが異なるかもしれません。これまでに何度か自分が変わっていく瞬間っていうのがあったんですけれど、まさに今がその時のようです。特に作品に向っていると自分が変わろうとしているのがよくわかるんです」
-----差し障りの無い部分でかまいません、変化の具体例を教えていただけますか。
「作品に関してはちょっとお話しすることは出来ないのですが、自分に関することであればお話できます。まず名前が変わるかもしれません。現在自分の名前の表記は『TOMI-E』となっていますが、これからは『富』と表記しようと考えています。やはり自分は日本人だから、たとえローマ字表記のほうが作品が海外に出た時にもわかりやすからといって、そうしたことに流される必要はないのだと割り切ることにしました。外国人の方にもちゃんと『富』という漢字を読んでもらい、この作品は日本人が描いた作品なんだと、視覚的に理解してもらおうと考えています」
-----でもTOMI-Eさんが関わっているのは、アメリカのヒップホップカルチャーの一部ですよね。
「まさに問題はそこにあるんです。グラフィティはアメリカだけではなく、今や世界中にあります。ただどの国も、スタイルこそ違えど、やってることは当然のようにアメリカに右へ習えなんです。先ほども話しましたが、アメリカから帰って来た時に、あれほど日本文化の素晴らしさを感じておきながら、自分はアメリカで出来上がった文化にどっぷり浸かっているんです。そこをどうにかしないと自分の中にある違和感を消し去ることは出来ないようです。だから作品を根底から見直し、自分流のスタイルで日本文化にどう関わっていくか、只今それを摸索中です。不思議なことにその作業がとても面白いんです」
-----それでは最後に今後の目標をお聞かせください。
「できれば、遠い昔に日本の絵師が海外の画家達をうならせたように、自分も早く単なるアーティストではなく、本物の職人と呼ばれるような人物になりたいと思っています」
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☆取材協力 『甲賀』
今回のインタビューでお世話になった、おそばの『甲賀』さんの店主、甲賀 宏さんとTOMI-Eさんとは古くからの親友だそう。この日もインタビューをしながら、甲賀さん自慢の料理と美味しいお酒を、たっぷり楽しませてもらった。
基本的には蕎麦がメインとなるが、その他の一品料理のバリエーションがとても豊富で、どの料理も蕎麦に負けず美味しいから、腹ごしらえをしつつ、軽くお酒を楽しみたい人にはもってこいの店である。またカウンターとテーブル席が離れているから、気軽に一人で立ち寄っても、ゆっくりすることができるのが嬉しい。
住所:東京都港区西麻布2丁目14番5号
電話:03-3797-6860
営業時間
昼:11:30〜14:30
夜:17:30〜22:00 (LO21:30)
定休日:日曜
