◆ 近5年で稼ぎ出した金額はなんと3千8百万円!ナンバーズの『THE 匠』は元キャビンアテンダントで有名スタイリスト、そしてあの"スター"「錦野 旦」氏の恐妻!?

 現在月刊誌『ロト・ナンバーズ"超"的中法』(主婦の友社)に予想を連載、その的中率の高さから「ナンバーズの達人」と呼ばれ、近5年で稼ぎだした金額はなんと3千8百万円!さらに1回の最高当選金額1千万円をはじめ、次々に高額当選を連発。今では「THE 匠」とまで呼ばれるようになった力丸ヒロ子さん("力丸専務"は『にしきのあきら企画』の専務であることからくる愛称)。
 あの"スター"錦野 旦氏の妻(恐妻?)であり、元キャビンアテンダント、モデル、スタイリスト、トータルファッションアドバイザーと様々な顔を持つ「美しき数字のカリスマ」の学生時代の夢は数学教師だったとか......。

 忙しい両親のもとで育った彼女は幼少期から数字をこよなく愛し、やがて数学一筋の学生時代をおくり、数学では右に出るものがないほどの学力を誇るようになるも、ふとした出来事からキャビンアテンダントの試験を受け、狭き門を通過し見事合格。社内ではインストラクターを担当するにまでになるが、20代後半で急遽ファッション業界に転身、その後人気テレビ番組『ルックルックこんにちは』では変身コーナーを担当し、やがてトータルファッションアドバイザーとして全国な活動をはじめる。

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▲ナンバーズの達人"THE 匠"とよばれる力丸ヒロ子さん

 そんな才能あふれる彼女が今もっともはまっているのが『ナンバーズ』。もともと数字が大好きなだけに、的中に賭ける情熱は並々ならぬものを持っている。そこで今回のインタビューでは『ナンバーズ』の魅力や勝負の醍醐味をはじめ、14年間かけて研究しつづけた高額当選を連発するための予想の心得を探りつつ、何処へいっても"力丸旋風"を巻き起こす彼女ならではのユニークな人生感を、錦野 旦氏との出会いや様々な過去のエピソードを含めたっぷりと語ってもらった。もちろんインタビューの最後には、最近気になる"ナンバー"も発表してもらった。 
(取材・文:松田秀人 協力:Kinu〜美のカリスマ〜

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☆ 力丸ヒロ子 (力丸専務) プロフィール

※公式ホームページより抜粋

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本名:錦野裕子
出身地:福岡県
血液型:A型
星座:獅子座

 キャビンアテンダントを経て、トータルファッションアドバイザーに転進。ファッションはもちろん、ヘアー、メーク、身のこなし、ウォーキング、色使いに至るまで、トータルアドバイスができる稀有な存在として、テレビ「ルックルックこんにちは」(日本テレビほか)、ラジオ、講演などで活躍。『力丸ヒロ子トータルファッションスクール』を日本各地で開校する。特に色に関しては造詣が深く、心理学をベースにした「元気の出る色(パワーカラー)」を使ったトータルコーディネートなど数多く手がけ、独自の美的方法論を確立する。

 2000年に錦野 旦氏と結婚。(有)にしきのあきら企画の専務取締役に就任。

 2003年から月刊誌『ロト・ナンバーズ「超」的中法』(主婦の友社)の『達人スター錦野 旦の「この世に数字がある限り」』で数字選択宝くじロトナンバーズの予想を連載中。今では、ナンバーズの達人⇒超達人⇒THE 匠と言われ、類まれな的中率を披露し、多くのファンを獲得している。

・にしきのあきら企画ホームページ
URL:http://www.interq.or.jp/pink/candy/

・力丸ヒロ子プロデュース開運グッズホームページ
URL:http://www.interq.or.jp/pink/candy/kaiunn.html

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☆ 力丸ヒロ子(力丸専務) インタビュー


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◆ 数学の教科書ばかり眺めていた幼少期。


-----旦那様の錦野 旦氏は大分県出身ですが、力丸さんも同じ九州は福岡県のご出身なんですよね。まずは福岡時代のことを振り返ってもらえますか。


「はい大分県の隣の福岡県ですね。福岡時代といえば生まれてから高校生のころまでなんですけれど、実は私って子供っぽくない子供だったんですよ。小さなころから何でも自分でやっていたから親に対しても冷めていたし、子供らしからぬ社交心もちゃんと持っていたし......。何故かといえば、私の両親の職業が二人とも教師で、さらに地域に関わる活動もしていた関係上、いつも仕事に追われ、しかも母親の背中には幼い弟がいましたから、長女だった私の日常生活は戦争未亡人の伯母にみてもらっていたんです。でも子供ながらに母や伯母に迷惑をかけちゃいけないと感じ、できることは全て自分でやるようにしていたんです。また両親の職業がら転勤も多く、小学校だけで何度も転校しました。ただ行った先々で毎回いじめにあうのも嫌だったし、みんなと短時間で仲良くなるために社交的である必要もあったのです」


-----度重なる転校は苦ではなかったですか。


「いじめに関して言えば、私は小学校5年生時にはすでに身長が158cmもあったので肉体的には負けませんでしたし、社交的だったからそういった苦しみはありませんでした。けれど自分を見失わないために精神的に強くなるほうが私にとってはもっと重要なことでした。ただ何度も何度も転校をこなしているうちに、気持ちも強くなり、なんに大してもあまり苦にはならなくなりましたけどね。とにかくそんな環境の中で生活しているうちに、自然と自立心も大きく膨らんでいき、いつしか両親に対して甘えたいという感情よりも、むしろ『こんな時、自分ならこうするのに』といったような対抗意識のほうが強くなっていったんです」


-----大人になってからの親子関係は?


「特に母とは未だにお互い対抗意識を燃やしていますね(笑)。しかし私が大人になってからのことなんですが、そんな母親が子供時代の私に対する気持ちを話してくれたことがあるんです。母によれば、私は、確かにまったく手が掛からなかったけれど、泣きつかれることもなかったし、何かが欲しいって駄々をこねることもしなかったから、親としてちょっと寂しかったそうです。なんかちょっと複雑ですよね」


-----幼少期の面白いエピソードなどあればお聞かせください。


「私は2歳になるとすぐに保育園に預けられ、3歳になると直ぐに、両親の転勤の関係で当時私が通っていた保育園からバスで1時間以上かかる土地に引っ越しをしなければならなくなりました。今ではもうはっきりとした理由を覚えていませんが、とにかく『違う保育園に通うぐらいだったら一人でバスに乗っていつもの保育園に通う』と両親に言い張り、けっきょく定期券を首からぶら下げて毎日一人でバスに乗り、1時間かけて通った経験があります。帰りは保育園の先生にバスに詰め込んでもらって、バス停までは祖父が迎えに来てくれたんです。今でもよく覚えているのは、運転手さんのすぐ後ろの席が私の特等席だったことです。3歳の子供が一人でバス乗車なんて今じゃ考えられないことかもしれませんね......。あと3歳の時にはじめて家出をしました。とはいえ3歳児が歩いて行ける距離などたかが知れているのですぐ見つかってしまいましたが......。ところが見つかった時の私の格好が面白くて、風呂敷に物差しとたくさんの布を包み、それを体に巻き付けていたそうなんです。なんでそんな変な格好をしていたかというと、和裁を生業にしていた伯母の口癖が『女は物差しと生地があれば生きていける』だったからです。今思えば、大人になって総合的なファッション関連の仕事をやるようになったきっかけも、きっと伯母の口癖が私の体にすり込まれていたからだと思います。『三つ子の魂百まで』っていうことわざもありますし、なにより私は母親よりも常に伯母の背中を見続けて育ったからしかたないんです」


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-----子供の頃から数字(数学)がとても好きだったと伺っておりますが。


「好きなんてもんじゃないですよ。もう保育園時代から数字が友達でしたからね。両親が教師だったこともあり、家の中にはたくさん教科書があったからいつも絵本のように眺めていましたよ。確かに漢字などは難しいですが、数字って図形的にもシンプルでわかりやすいじゃないですか?だからいつも数字ばかり眺めていたんです。そのうち読み書きもできるようになり、気がつけば小学校に上がる前には、かけ算がすらすらできるようになっていました。だって子供ってなぞなぞみたいにちゃんと答えがあるものって好きでしょ?そう考えると算数の教科書って全部なぞなぞみたいなものじゃないですか。それからというもの、小・中・高校とずっと算数(数学)マニアですよ。高校も女子が3人しかいないような理数系に力を入れている学校でしたし、もちろん当時『あなたの夢は?』と聞かれれば、一環して『数学の先生』と答えてましたから間違いなく数学マニアでしたね。とはいえ、まったくのガリ勉だったわけではなく、体には恵まれていたからスポーツもできましたよ。特に短距離走が得意でした」


-----けっきょく理数系の大学へは進学されなかったのですよね。


「高校3年生の最終進路決定の時に、あることでとても不安になり突然考えが変わってしまったんです。もちろん当時の担任もビックリですよ。あれほど『数学の先生になる』って意気込んでたわけですから。直ぐに担任が自宅にやってきて『実はお宅の娘さんが......』って始まりました。私が何に対して不安を抱いたかというと、『人間として不完全な私が学校の先生になんかなっていいのだろうか』ということだったのです。確かに高校生ぐらいの年齢であれば、そんなことを気に病むほうがおかしいのかもしれませんが、当時は真剣に考え込んでしまったんです......。それまでの私は単純に数学が好きだから職業も数学の先生で決まり!ぐらいにしか思っておらず、逆に人に何かを教えることとはいったい?みたいな部分がまったく抜け落ちていたんですよ。だからそっち方面のことを真剣に考えだしたら、なんだか急に先生という職業に対するイメージが混乱してしまって、それからは『数学が好きで得意なことと先生は別』と考えるようになり、だんだん自分が何になりたいのかが解らなくなってしまい、やがて『ずっと数学のことばかりに集中していたから不完全なんだ』という単純な理由にたどり着き、これまでの人生とは対象的な文系大学の英文科を受けることで穴が埋められるのでは?という考えに落ち着いたのです」


-----文系の勉強は肌にあいましたか。


「子供のころから数字ばかりを追いかけてきた私にとって文系の勉強というのはもの凄く苦痛でしたね......。『もう何が言いたいのかはっきりしなさいよ!答えはひとつしかないはずでしょ』そんな感じです。だって小説を読んだり、英語の勉強をするような時間があれば数学の公式を解いていましたからね。それでもどうにかしてここを乗り切らねばって頑張りました。これは余談になりますが、実は大学時代は英語の教師に数学を教えたりもしていたんですよ」

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◆ 気がつけばキャビンアテンダントのインストラクターに


-----プロフィールにはキャビンアテンダントとありますが、けっきょく数学の教師という夢は叶わなかったのですね。


「そうなんです。大学卒業後はスチュワーデス(キャビンアテンダント)になりました。何故だかこの大学の英文科の人達は、就職シーズンになると誰もがスチュワーデスになりたいと申告するんです。ある意味スチュワーデスになるために英文科に通っているといっても過言ではないほどです。だから就職シーズンになってもなりたいものが出てこなかった私は、そんな流れに身をまかせて就職活動の一環として、みんなに習ってスチュワーデスの試験の申し込みをしました。当時スチュワーデスの試験って6次ぐらいまであって、合計半年がかりで行うんですよ。そのため毎回落伍者が出るんです。まるで夏の甲子園で優勝を目指しているような感じで、落ちた人はまだ残っている人に『私の分までがんばってね』って泣きながら声をかけたり。もう本当に凄いんです。確か3次試験までにほとんどの仲間が落ちてしまったと記憶しています。でも私はまだ残っていて、ちょうど4次試験か5次試験を受けていた頃、大学からの進めで九州のある銀行の頭取の秘書の試験を受けたんです。とにかく私以外の受験者は有名大学から来ている人達ばかりだったから当然私は落ちると思っていたのですが、何故か受かってしまったんです。ただ、わたしとしてはまだスチュワーデスの試験の途中だったし、もちろん最初はみんなに便乗して受けた試験だったけれど、やはり4次、5次と進むに連れ、落ちた仲間も多くなるわけで、そんな人達の気持ちを考えると『銀行が受かったからスチュワーデスはもういいです』なんて言えないし、かといって性格的に二股をかけるのも嫌だったので、直ぐにその銀行に足を運んで、アポなしで頭取のところに行き、正直に『すいません自分の人生に二股はかけたくありません』って申し出たんです。そうしたら翌日に銀行の人事課の人に呼び出されて『今後君の学校からは人を受け入れませんから』ぐらいこっぴどく怒られました。ただ頭取には『君のその性格が気にいった、もしスチュワーデスの試験に落ちたら我が社にきなさい。待ってるよ!』と言われました。そうこうしているうちに最終試験まで残ってしまい、私一人が合格するという変なことになってしまったのです。当時はもう仲間も学校も大喜びでしたよ。確かに振り返ってみれば過酷な試験だったとは思うし、これからスチュワーデスを目指そうとする後輩のことや、みんなの喜ぶ姿をみていたら私もその気になってきて、そのままありがたく入社させてもらいました。配属は関西方面でした」


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▲キャビンアテンダント時代の力丸さん


-----キャビンアテンダントの仕事にやりがいはもてましたか。


「実はそうでもないんです......。スチュワーデスって試験に受かってからが大変なんですよ。またそこからこれまでにやってきたような試験がずっと続くんです。せっかく試験に合格したのに、訓練で挫折する人もいるぐらい大変なんです。もともと仕事に興味がなかったとはいえ、やり始めれば燃えるほうなので、そうした訓練において私は真面目だったし、自分で言うのも変ですが一番頑張っていたとさえ思っています。だからさすがに戴帽式の時は泣きましたよ。でもすぐその後に、機内でお茶をつくっているときなのですが、ふと『私ってこんなことがしたかったの?』と思ってしまい、一度は真剣にやめようかとも考えました。でもこのまま故郷に帰ったとして、『あなたは何やってた人?』って聞かれた時に、最低でも3年は続けていないとスチュワーデスとは言えないし、その間に、もしかしたらスチュワーデスという仕事の本当の良さがわかるかもしれない......。ただ3年続けて何も得るものがなければ、その時こそやめようと考えなおしました。個人的に納得ができればまた自分でも信じられないくらいのやる気がでる私ですから、そこから頑張って気がつけばインストラクターになっていたんです。その時はじめて『あれ?これって先生じゃん!』と気がつき『数学ではないけれど、まあいいか!自分のやってきたことはまったく無駄じゃなかったし』って少しほっとしました」


-----それではインストラクターの仕事は?


「それが何年か前の悩みはいったいなんだったんだろうと思えるほど、まるで水を得た魚のように活きいきとしましたね。やはり両親が教師だったという血すじでしょうか?私も教えるのが上手だったらしく、インストラクターとしての評判はとても良かったんですよ。きっと生まれながらの環境からつくられた社交性と持ち前の理数系の分析力、そして自分に足りないものを補うためにいやいやながらに進んだ文系で培われた言葉の表現力等がほどよくミックスされて、上手い具合にバランスが保たれていたのでしょうね。今思えば、やはり高校卒業時に感じた自分の不完全性を補うための荒療法は間違っていなかったように思われます。だから人を教えたりするのは苦どころかむしろ楽しいぐらいでした。しかしそれにもなれてくると、やはりもともと飛行機やスチュワーデスの仕事そのものに憧れていたわけではないので、『せっかく人に教えることができるようになったのに、何故自分が興味を持てないことを人に教えているんだろう』って思いはじめ、さらに当時のスチュワーデスは30歳で定年でしたから、その後の人生のことを考えると、今のうちに何かを掴んでおきたいという気持ちがわいてきました。ただ考えた末に行き着いたのはもともとの夢だった数学教師ではなくファッション業界だったんです。そしてやるからには徹底しないと気が済まないから、すぐにモデルクラブに所属し、ファッションの学校に通うようになりました」


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▲キャビンアテンダント時代の力丸さん


◆ スチュワーデスの仕事に見切りをつけモデルに転身!


-----ここで「やっぱり数学」ならわかるのですが、何故いきなりファッションだったのですか。


「実はこれがいきなりでもないんですよ。先ほど子供の頃の私を生活面で支えてくれていた伯母が和裁を生業にしていたこともあり、『女は物差しと生地があれば生きていける』というのがの口癖だったことを話ましたが、いつも伯母の背中をみていたから、『つくる』という視点から常にファッションが身近にあったし、もうひとつあるとすれば、父の影響があると思います。当時の父はとても忙しい人だったけれども、娘の私から見てもハンサムだったし、コーディネイトのセンスがよくとてもお洒落だったんですよ。テレビに出てくるどんな人よりもルックスは素敵だと子供ながらに感じていたほどですから......。まあ地元ではちょっとした有名人だったんです。奇麗好きとか『いつでもピシッとしていましょう』といった部分は父からの影響が大きいと思います。逆に母は私の目からはだらしなく映っていましたね。ちなみに外見が父に一番似ているのは弟ではなく女の私です。だから数学以外に、幼少期から自然にすり込まれていたものといえば、やはりファッションだったのだと思います。数学の先生に関しては、スチュワーデスのインストラクターになれた時点で、そこまでのこだわりはなくなりました。かといって数学が嫌いになったわけでもありません......。単に数学イコール先生という思考がなくなっただけです」


-----モデルクラブに所属し、ファッションの学校に通われるようになったのは何歳ぐらいからなのですか?


「当時のスチュワーデスの定年(30歳)を迎える前に行動を起こしたから20代後半になります。会社には辞表を提出して退社し、まず関西のモデル学校に通いながら同時にモデルクラブに所属し、モデルの仕事をするようになりました。特にモデルを目指す女の子が通う学校なんて、年齢層はぐっと低かったから、10代の子供達の中に20代後半の私がポツンと入っていたような状態でした。でもその時は必至で何かを掴みたかったから、恥ずかしいなんて気持ちは全然ありませんでした。ホットパンツをはいて元気よく通ってましたよ!そうこうしている内にモデルの仕事現場である方とお会いし、それがきっかけで東京の有名モデルクラブに所属することになり、活動拠点を東京に移すことに決めました」


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▲モデル時代の力丸さん


-----モデルとしてはしてはどのような活動をされていたのですか。


「東京での生活費とファッションスクールの学費を稼ぐために、あの有名モデルクラブ『SOS(Society of Style)』が当時運営していた姉妹クラブである『リップスティック』に所属し、様々な仕事をこなしました。そこでは一般的なモデルとしての仕事はもちろん、トークが必要な仕事の依頼も多かったから本当にいろんな経験を積むことができました。まあ今のようにモデルからコメンテーター、司会と何でもこなすマルチタレントがたくさんいた時代ではなかったから、美人でスタイルがよくて、しかもおしゃべりもできる女性達は、いろいろと重宝がられていたんですよね(笑)」


◆ 日本テレビ『ルックルックこんにちは〜あなたもトップレディ』、静岡けんみんテレビ『力丸ヒロ子のお洒落』を得て、全国的なトータルファッションアドバイザーに!


-----日本テレビで放映されていた朝の人気情報番組『ルックルックこんにちは』の『あなたもトップレディ』のコーナーに出演されていたのはこのころですよね。


「たまたまなんですけれど、東京のファッションスクールの先生がその当時『ルックルックこんにちは』の中の変身コーナー『あなたもトップレディ』を担当しており、何故か私に『番組でスタイリスト探しているんだけどやってみない』って声がかかったんです。すぐに了解をして、番組プロデューサーに合わせてもたいました。その時プロデューサーに最初に言われた言葉は今でも鮮明に覚えています。『君に番組スタイリストの仕事ができるのか?』と聞かれた私は『ぜひやりたいです』と答えました。すると『やりたいのとやれるのは全然違うんだよ!』と一括されてしまいました。その時は凄く怖かったけれど、『大丈夫やります!』って言い放ち、必至になって頑張っていたら、すぐに気にいってもらえるようになりました。そうした出来事もあり『ルックルックこんにちは』に関わっていたトータル7年のうちの前半の3年は裏方だったのですが、後半の4年は番組に出演するようにもなったんです。『変身』コーナー『あなたもトップレディ』には、ファッション評論家の大内順子さんと代わるがわる担当させていただきました。どちらかといえばタイプ的に大内さんはコンサバティブなイメージの変身が多く、私は斬新なイメージが多かったから視聴者は面白かったのではないでしょうか?ただ私の場合斬新なだけに、構想の全てが私の頭の中でイメージされており、これといった見本もなかったから、ヘアやメイクの担当者にイメージを正確に伝えるのが難しく、最後は全部自分でやりたくなってしまい、けっきょくやってしまいました。そんな出来事が、のちにトータルファッションアドバイザーとして活動していくきっかけになったことは言うまでもありません」


-----『ルックルックこんにちは』に定期的に出演していたことから、別番組のオファーとかはなかったんですか。


「ありました。特にテレビ番組の司会関係の依頼が多かったです。でも私はファッション関係の世界で自分のポジションを見つけようとしてスチュワーデスをやめたのだから、そういう仕事は全てお断りしました。そんな中、静岡けんみんテレビのプロデューサーから『番組の中で30分のコーナーをあげるから好きなことをやってください』と言われ、それならということで『力丸ヒロ子のおしゃれ』というタイトルでファッションに関するトータル情報を7年間やらせていただきました。いざやってみたらローカルにも関わらず高視聴率を取ることができたのでちょっとびっくりしました。実はその番組のおかげで、その後私が『力丸ヒロ子トータルファッションスクール』を開校した時、この地区からは特にたくさんの生徒さんが通ってくれたんです」


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▲テレビ時代の力丸さん


-----どうしても「教える」ということから離れられないみたいですね。学生時代に数学教師の道を諦めたのにもかかわらず、大学の英語の教師に数学を教え、キャビンアテンダント時代にはインストラクターに選ばれ、さらにファッション界に転身してもテレビ番組で教える立場になってしまい、しまいにはファッションスクールまで手がけることになってしまうのですから......。


「どうやらそのようですね。思えば子供のころから数学の先生を夢見ていた私が、紆余曲折の末、学校そのものを手がけるにいたるのですから人生って不思議ですよね。みなさんも本当に明日のことなんてわかりませんよ(笑)。ただ何をやっても最後は人に何かを教えているというのは、きっと人から寂しい思いをさせられた分、人が好きなんだと思います。子供のころは毎日必死だったから深くは考えませんでしたけれど......。また母は教師以外にも政治の仕事などもしていた関係上とても忙しく、幼い弟の面倒をみるのに手一杯だったから、長女の私のことにかまっている暇などありませんでした。もちろんそのことに関して母親を恨んでなどいませんでしたが、ただどこかでもう少し平等に相手をしてほしかった感じていたはずです。それが証拠に、生徒達からは『先生はメイクやコーディネイトが巧いですね』という評価よりも、むしろ『先生は誰に対しても平等なのがいい』という評判のほうが先にたっていましたから......。それってちょっと微妙なんですど」


-----『力丸ヒロ子トータルファッションスクール』について詳しく教えてください。


「内容は名前の通り、ヘアメイクから靴選び、ウォーキングまでファッションに関する勉強をトータルに教えるスクールです。簡単に言うと、ファッションを通し自分だけの価値観をみつけるための学校です。そんな中、特に評判だったのがメイクです。私のメイクの基本は顔の皮ではなく骨格そのものにメイクをして立体感を出す『骨格メイク』なんです。例えば目であれば、瞼とか目の縁といったような捉え方はせず、目の玉が入っている骨格の空洞部分の全てが目であると捉えます。だからメイク前とメイク後を比べると立体感が凄く変わるんです。もともとは『本当の意味でその人のことを知ることなく、上っ面だけに化粧してなんの意味があるの?』という考え方からはじまっているんです。だからテレビやショーだけでなく、日常生活の中での即戦力メイクとしても使えたので人気がありました」


-----変身の依頼も受けていたんですよね?


「もちろん変身させる仕事もたくさんやりましたよ。ただ変身というかトータルファッションアドバイスと言ったほうが適切かもしれません。当時は年齢性別に関係なく銀座のママからOLさん、社長秘書に芸能人、さらに男性まで、数えたらきりがないほど変身させました。変身希望者の話を聞くとみなさん本当に様々な悩みがあるんです。もちろんメイクとかファッションセンスといったごく普通の内容でさえも、突き詰めていけば、たとえば女性だったらO脚が原因だったりすることさえあります。だからトータルで考える事が大切なんです。難しいのは流行を取り入れるバランスです。やはり流行はその時代を生きている証しですから、各人にフィットしたトータルファッションの提案の中に、必ず流行を注入してあげないと駄目なんです。さらに帰る時にはみなさんの目に自信の火が灯り、活きいきと輝きはじめなければ私が担当した意味がありません。当時は一人ひとりの変身はまさに真剣勝負でした」


◆ 「錦野とは人間的に裏表が無いという部分が共通しているんです」


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▲ご主人の錦野 旦氏と


-----2000年に錦野 旦氏とご結婚されたとうかがいましたが、出会いはいつごろなんですか。


「出会いだけはかなり古くて、実は機内で初めて顔を合わせたのは私がスチュワーデスの訓練生だったころなんです。でも当時はお互いに忙しくて、ほんの顔見知り程度の仲で終わってしまいましたが、その後スチュワーデスを辞めて『ルックルックこんにちは』に出演している私を、錦野がテレビで見かけたことがきっかけで再会し、それから私が彼のスタイリストの仕事をするようになって付き合いがはじまりました。ところがしばらくして私がファッションスクールを開校してもの凄く忙しくなってしまったんです。なにせ静岡を中心に全国展開していたし、生徒数も約1,000人ほどかかえていたから、いつも全国をまわっていなければならず、当時はまったくといっていいほど合うことができませんでした。ただそんな中でも付き合いが続き、結局2000年に結婚することになりました。それと同時に彼を支えることに専念するため全国展開していたファッションスクールもきっぱりとやめてしまいました」


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-----錦野 旦氏のこんなところが好きという部分を教えてもらえませんか。


「お互いに考え方とか趣味とかはまるで違うんですけど、人間的に裏表が無いという部分だけは共通してるんです。私が好きなのはそういうところですね。よく人に『あなた達は人の裏が見れないから騙されやすいよね』なんて言われたりもしますが、逆に言えば裏がないんだからいいじゃない!って思えるんです。人の裏ばかりを見たり気にしたりしながら日々を送るのって嫌じゃないですか......。だから騙されたら、見抜く力がなかった自分達が悪かった、ああ勉強題が高かったなって考えるようにしています」


-----最近「恐妻」なんて言われてますけど......。


「私も男っぽい性格だから、感じたことは隠さずきちんと伝えるし、やらなければならないことはテキパキとクールにこなすので、いつの間にか怖いイメージがつき、最近では『恐妻』なんて言われるようになってしましました。さらに今度の12月には『ツキを呼ぶ恐妻のススメ!』(下記参照)という本まで出版されるんです」


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▲ツキを呼ぶ恐妻のススメ!(主婦の友社)


-----確かに性格は男っぽいのかもしれませんが、力丸さんは子供のころからまわりにも気を使っているし、デタラメに怒鳴ったり我がままを言ったりはしていないように思えるのですが。


「でしょ!恐妻なんてみんな言い過ぎですよね。そういえば先日『恐妻』って言葉を辞書で調べてみたんです。そうしたら、『妻が夫を恐れていること』という意味ともうひとつ『妻に頭があがらないこと』と記されていたので、なるほど後者ならありえるなと納得しました(笑)。とにかく今は私も錦野と二人三脚で会社をやっていますから、自分の力を専務という立場から一点集中で注ぎ込んでいるし、常に5年後の錦野のことを考え動いているから、たまに動きが鈍っている時などにキツイひと言を放ってしまうんです。でもそれは真剣な証拠なんですけど!」


◆ 数学大好き少女はいつしか「ナンバーズの達人」となり、ファンからは「THE 匠」と呼ばれる存在になる。


-----ナンバーズをはじめたのはいつですか。


「1995年のナンバーズ発売開始当時からはじめたのでもう14年になりますが、ナンバーズには数学マニアの心を動かされましたね。結婚前から一人でコツコツとやっていたのですが、結婚後は夫婦でやるようになり、試行錯誤を重ねるうちに、だんだんと数字の探し方みたいなもののコツが解ってきて、それからは面白いように当たるようになったんです。そうこうしているうちにその的中率がちょっとした話題となって、2003年から月刊誌の『ロト・ナンバーズ"超"的中法』(主婦の友社)という雑誌に、錦野と共に予想を連載するようになりました。そして少しづつ紙面でも成果を上げるようになり、しばらくすると『あれ?錦野さんより力丸さんのほうが当たってやしないですか』なんて言われるようになって、いつしか『ナンバーズの達人』と呼ばれるようになり、さらに実績を積み上げ『超達人』に昇格し、現在では『THE 匠』なんて、まるで格闘技選手みたいにもの凄いことになっています(笑)。でもね、最近は数字がひとつひとつの単なる数ではなく、まるで言語のように見えてくるようになったんですよね!数字と対話っていうか?なんかこんなこと言っても理解してもらえないかもしれませんが」


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▲ロト・ナンバーズ"超"的中法(主婦の友社)
 毎年1月号の表紙は錦野 旦氏が担当する


-----いくらなんでもはじめから何かが見えていたわけではないですよね?


「それはもちろんですよ。はじめの一歩は私も自分の誕生日だったり、好きな数字をかき込んで楽しむ、いわゆる『待ち』の状態で遊んでいましたから。でも何でもやりはじめると徹底的にはまってしまうタイプだから、知らないうちに自分なりに研究を始めてしまったんです。なにせ子供のころからの数学マニアとしては、他のギャンブルや遊びと比べて、純粋に数字と向き合って勝負ができるナンバーズほど面白いものはないんですよ。まあなんでもそうですけれど、本当に面白いと思ってやっていると、不思議といろんなものが見えてくるんです」


-----力丸さんは単に次回来そうな数字をぽんぽんと機械的に上げるのではなく、予想そのものが凄いですよね。先ほどファッションのお話をされた時に「トータルで考えることが大切」とおっしゃっていましたが、『ロト・ナンバーズ"超"的中法』の紙面においても、トータル予想で高額当選を続出されていますよね。


「そうなんですよ。トータルバランスってどの世界においても重要なんです!この『数字しかない』ナンバーズの世界にも、流れやリズムや偏りがちゃんとあるんですよ。だから私の予想は、たとえば占いのように『今月のラッキーナンバーは何番と何番なので、あとはみなさんお好きなように』みたいな予想ではなく、『これから連続でこういう数字がくる流れである』とか『この数字を軸にこれからこういう展開が予想される』という前提があって、そこからナンバーズ3(3桁の数字を当てる)でもナンバーズ4(4桁の数字を当てる)であっても、ストレート(数字の並び順も当てる)を狙って予想するんです。予想の醍醐味という点から見ても、高額当選を狙うということにおいても、やはりボックス(並び順は関係ない)ではなくストレートで当てたいんです。なにより『THE 匠』とまで呼ばれているからには、ストレートを当てていかなければならないでしょ(笑)」


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-----ちなみに当選金額の高低の仕組みについて簡単にご説明ください。


「みんなが同じような数字をたくさん買っている時に当選してももちろん高額当選にはなりません。たとえば3桁の数字を当てるナンバーズ3を例に考えてみましょう。抽選日が11月3日が文化の日だったとすると、みんなとりあえず『文化の日だからついでに押さえておこう』という理由から113がたくさん売れてしまいます。だからストレートで113がきても一人あたりの配当はよくなりません。ところが同じ数字の組み合わせでも、ストレートで131や311なら、買っている人が少ない分一人あたりの配当がよくなるわけです。このように配当なんてちょっとしたことで大きく変わってしまうんです。ちなみに5963(ゴクロウサン)とか、1122(イイフウフ)、4649(ヨロシク)などは買う人もかなり多いでしょうね」


◆ この5年間のうちにナンバーズで稼ぎ出した金額はなんと3千8百万円!1回の最高当選額は1千万円。


-----きっと企業秘密のようなものだとは思うのですが、できれば簡単に数字を導き出す考え方など教えていただけないでしょうか。


「いいですよ!きっとみなさんも、『誕生日買い』や『記念日買い』といった『待ち』の買い方から一歩前進しようとするときにはデータを重用視するはずです。もちろん私もデータは重用視して常にデータ分析はしていますが、まずポイントはスパンの長い過去のデータから数字の流れの変化を見極めます。ある一定期間同じような流れが続きそうなのか、単発的な変化が頻繁に続きそうなのかに注目しつつ、そうした流れがどの辺りで逆転するのかなどを探ります。さらにごく最近のスパンの短いデータをチェックしつつ、逆転の兆候が始まってないかなどの、数字のリズムを細かく分析していきます。特に一旦落ち着いた流れが逆転しはじめるタイミングが計れるようになると高額当選の可能性が高くなります。まあ、そうしたタイミングだけは経験と勘による部分が大きいので、明確に話すことはできないですけれど......。とにかく、長いサイクルでの数字の流れを感じながら、いち早く小さな変化に気づき、躊躇なく動くことができる感覚を持った人がトータルで勝てるんです」


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-----数学の先生に質問です。よろしければ何かに例えてわかりやすく「データと確率と分析」の基本的な考え方を教えていただけますか。


「ではとても簡単に説明しますね!例えば数字には奇数と偶数がありますよね。1から100までの数字が描かれたカードをシャッフルし、大きなテーブルに裏返しに並べ、好きなカードからランダムにめくっていく作業をするとします。作業途中の50枚をひっくり返した段階では、奇数と偶数の枚数が必ずしも半々になるとは限りませんよね。もしかしたら奇数が35枚で偶数が15枚かもしれません。その時々で変わってくると思います。しかし100枚全てをめくれば確実に奇数と偶数は50枚づつになります。この作業の中でめくって出て来た数を書き留めて現状を解りやすくまとめたものをデータといいます。次に確率ですが、めくった枚数が多くなればなるほど、奇数と偶数の残り枚数が絞られていくのでデータを確認することで、次にめくると奇数と偶数のどちらが出てきやすいかを推測することができます。これが確率です。そして次に、ここまで90枚をめくり、残りが10枚になった時、奇数が3枚、偶数7枚あったとして、確率的に偶数が多いからといってかならずしも偶数をめくることができるかといえばそうではないことに気付きます。そこで、今までの経過を振り返りつつ、どういうリズムや流れでめくられてきたかということを、データをもとに考えなければならないのですが、もし明日同じ作業を繰り返したとしても、結果は今日と同じにはなりません。そんなことを1年間続けたとします、すると面白いことに、今までまったく検討がつかなかった『次に何がくる』ということに対しても何らかの法則が生まれるのが解ります。これが分析で、データをもとに分析したものをさらに集めて偏りを探ると統計となります。その統計の出し方は、めくる人が変われば内容が変わってしまうように、千差万別ということになります。あとはいざ勝負という時に自分自身の経験と勘を信じ『このタイミング』と思ったところで躊躇なく踏み出せるかどうかが鍵ですね」


-----ありがとうございます。さすが先生ですよく解りました。ただ、ナンバーズでもロトでも競馬であっても、いざ勝負となるといろいろと雑音が耳に入り、あっちこっち流されてしまい、行くべき時に行けなかったり、勝負どころが何処かもわからず、気がついたらバランスの悪い買い方をし、トータルでマイナスしていたりするんですよね。


「まあ勝負ごとには常に、街中でささやかれる固定観念やセオリー、または思い込みっていうのがつきまとい悪さをしますからね......。時に自分自身で蓄積した統計よりもそうしたもののほうが勝ってしまうこともあるかもしれません。ただそういうことには流行りすたりがあるということだけは覚えていたほうがいいですよ。逆を言えばたくさんそういう人がいるからこそナンバーズでも、競馬でも高配当が生まれるわけですから」


-----差しつかえなければ、どのくらい勝っているのか教えていただけますか。


「金額をあげれば、この5年間のうちにナンバーズで稼ぎ出した金額は三千八百万円です。はじめたばかりの頃から数えるとおよそ6千万円ほどになります。もちろんこれは錦野との合計ではなく、私一人だけの当選金額です。ただ昔は今のように雑誌の連載もなかったし、いちいち証拠も残していないから、証拠が残っている額面ということで公的には3千8百万円としています」


-----1回の最高当選金額は?


「2005年の10月11日に当選した1千万円です。この日のことは忘れません。私は高熱を出してひとりで歩いて病院にいったんです。注射をされると意識がもうろうとしてきて、そのまま自宅に帰って寝てしまいました。次の日も体調は優れませんでした。でも、どうしてもミニロトがやりたくってとりあえず動きだしたのですが、やはり駄目で自宅に帰ってお粥をつくったりして寝ていました。一段落して気分がよくなってきたから『さあナンバーズの当り番号でもしらべるか』って手元に目をやると、これがなんと当たっていたんです。でも当たった時に最初にでた言葉は『当たった!』ではなく、何故か『何が違う?』という奇妙な言葉でした。その時のことをスローモーションのようにはっきりと覚えています」


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-----ロト6やミニロトもされるんですか。


「研究に研究を重ねているのはやはりナンバーズですが、ロト6やミニロトもたまにやります。結果はロト6では3等が2回、ミニロトでは1等が1回、2等が3回です」


-----当選できるコツを教えてくださいなんてよくいわれませんか。


「よく言われますね。でもそんなに簡単に当てられるコツがあれば、私も苦労はしないですよ(笑)。数学マニアの私が、いったい何年かかってここまで来てるとおもいます?14年ですよ!これだけかかってやっと意識的に桁が当てられるようになったんですから、そんな特効薬みたいなコツがあるのなら私が知りたいくらいです。でも数字のサイクルというのはちゃんとあります。まあとにかく、何事にもあまり先入観にとらわれすぎず、バランス感覚を大切にしてトータルで物事を考え、自分の価値観を磨いていくことをしなければ、なにをやってもブレまくってしまうでしょうね!結果いい数字にも巡り会えないということになるのではないでしょうか」


-----確かにそんなに都合のいい話なんかありませんよね。「こうすれば絶対に勝てます」なんて言われるよりも、逆に「そんなものはない」と言われるほうが真実味があっていいです。


「今となっては、子供のころに目指していた数学教師がナンバーズの匠に変わり、向き合っているのが生徒ではなくファンの方々になりましたが、それだけに『TEH 匠』という名に恥じることの無いよう、さらに研究を重ね、常にストレート、そして桁、さらにグランドスラムを意識して予想をしていきたいと思います。なにより今は、スチュワーデスのインストラクター時代に感じた『自分が興味のないことをどうして人に教えられるのだろう』といった悩みをまったく感じなくなったのはよかったです。だってこんなに興味があって日々研究していることを、毎月ナンバーズファンの方々に紙面を通じて伝えることができるのだから嬉しいかぎりです」


-----最後に2009年の最後の2ヶ月、力丸さんが気になる桁をどうしても教えてもらいたいのですが?


「やはりそうきましたか。わかりました。そうですね......。注目しているのはナンバーズ3の『 0 0 ※ 』です。ちゃんと覚えておいてくださいよ!」


-----ありがとうございます。必ずチェックします。


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☆ 関連情報

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▲『ツキを呼ぶ恐妻のススメ!』

ミニロト、ナンバーズに当たりまくっている錦野旦の著書が発売!
宝くじの獲得賞金が、夫婦で総額4,500万円を超える錦野旦夫婦。
バカヅキの秘訣はスター錦野の"恐妻術"にあった!?妻である
"宝くじの女王・力丸専務"の的中法も公開!

著者:錦野 旦
出版社:主婦の友社
発行年月:2009年12月2日
ISBN:9784072688144
本体価格:1,470円 (税込)
☆2009年12月5日(土) 14:00より発売記念サイン会開催!
場所:紀伊國屋書店新宿南店 新宿高島屋5階 紀伊國屋
問い合わせ03-5361-3301(要整理券)


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▲錦野 旦 『情熱のスタア・ディスコ / ガラスの部屋』
歌手デビュー40周年・錦野旦、日本を元気にします!

2009年12月16日 発売
錦野 旦 『情熱のスタア・ディスコ / ガラスの部屋』
発売・販売元:ポニーキャニオン
品番:PCCA-70266
価格:¥1,260(税抜価格¥1,200)
◆ 初回生産限定 : 幸運・開運カード 封入!

 ◆ 収録楽曲 ◆

1.情熱のスタア・ディスコ
作詞:松井五郎
作曲:THFJ 編曲:羽島亨

2.ガラスの部屋
作曲・作詞:AMENDOLA GAETANO
  作曲:LEONI EZIO
  作曲:MUROLO ROBERTO

3.情熱のスタア・ディスコ
(オリジナル・カラオケ)

4.情熱のスタア・ディスコ
(インスゥルメンタル)

5.ガラスの部屋
(オリジナル・カラオケ)

誰もが知ってる! スタア!錦野旦
ヤツが、燃え滾る情熱と共に帰ってきた!!
"元気のない日本に元気と勇気を与えてくれる!"
全日本待望の新曲リリース!

タイアップ
BSフジ 連続ドラマ 「やつらは多分宇宙人!」(2010年1月~放送)
ドラマ初主題歌! & 錦野旦ドラマ出演決定!


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錦野 旦(にしきの あきら) プロフィール
 1948年。大分県出身。1970年『もう恋なのか』でデビューし、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞する。また、NHK「紅白歌合戦」には連続6回出場。ジャンルを超えてテレビ・コンサートでは、歌とパワフルなダンスで活躍する"スター"趣味のロト、ナンバーズで的中を重ねる「超」達人でもあり、2009年12月2日には著書「ツキを呼ぶスター恐妻のススメ!」を発売!
 歌手デビュー40周年を記念して2009年12月16日には、7年振りのシングル「情熱スタア・ディスコ/ガラスの部屋」をリリース!" スターが元気のない日本に元気と勇気を与えてくれる! "